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野菊の墓を読んでから40年  (40 Years Later After Reading "The Grave of a Field Daisy")

 

                                                                                                    野菊の墓を読んでから四十年  

 

                                                                                                                      天野啓子

                                              

ここは横浜ルミネの地下、イングリッシュティールーム店の中。私は入ってすぐ右手にあるカウンターに座って英語の脚本を読もうとしていた。

昭和四十年ごろよ。読んで泣いたんだけど

みんな純情だったな。岡田先生のときだよ長靴の

カウンターからすこし離れたブース席で私と同年代くらいの男女が向かい合って話しているのがきこえる。男性は客のなかではたったひとり。お店は百人くらいはいりそうで、半分くらい女性の客でうまっている。どうして男の人がひとりしかいないのかしら?

そうそう、田んぼのあぜ道かよって、あの学校はいつも長靴だって言われた。あのときすごく感激したのに、今度読んでがっかりしたわ

そう? 実は、あれで僕は国学の道を真剣に考えたことがあるんだ

へぇ、それで国語の先生になったんだ。しらなかった

でも長く読まれてるだけあると思うよ。いいと思うな、やはり

女性はやせていて、うしろむきのわりには声がよく響くなぁ、どこかで聞いたことある横浜弁だと思いながら、私はポットから紅茶をそそいだ。やせていても肺活量があるのかもしれない。

太田博之が主演したじゃん、見た?

いや。山口百恵がやったんじゃなかったかな

うんうんそうそう。そお?折口先生はよかったんだ、そうなんだ

太田博之がテレビドラマでやった野菊の墓だ。わたしも見てしくしく泣いた。そういうわけでこのふたりの話に興味をそそられて脚本のほうは読めなくなってしまった。

じつは私はハリウッドではマリリンモンローの再来とさわがれている女。もちろん、マリリンモンローが今でも生きていたら、と言う意味だけど。そういうわけで嘘はつけない、わたしは真実にいきる女。たった一週間まえ、三十年ぶりにアメリカから帰ってきた。日本には毎年遊びに来ていたけれど、来年は横浜開港百五十年でハリウッド映画劇「Let's Make Love」に出演することになっている。

今回また読むのに、駅前の本屋さんで買ったんだけど。これ見て。べたべた若い女性の写真が何枚もくっついていて、趣味悪いのぉ

うーん

男性は女性から文庫本を受け取って首をひねっている。

折口くんは野菊の墓のどこがよかったわけ?

ん、僕はなんかほろっとしたよ、最後のとこ

 男性は額にしわをよせて本をテーブルの上においた。なかなかかっぶくのいい織田信長のような顔をしている。どうも女性のほうが一方的で、男性は言うがままになっているというかんじ。これが近代日本の男女の在り方なのかもしれない。昔はこうじゃなかった。こういう女性は尊敬語を使いながら、語尾にさぁ、と平気で言う。こういうのは許せない。そんなことを考えながら、わたしは薄茶のドレスを正して足を一方に流すようにしてハイヒールをそろえ、ふたりのほうをちらっちらっと盗み見た。

泣いたの?まさか泣いたんじゃないでしょ

女性はそう言ってフェラペチーノをストローでずーるずーると飲む。男性はいやな顔もせず下をむいた。かわいそう。

む、いや、だって最後死ぬだろ

死ぬからかわいそう?でもさぁ、都合いいように書いてあるのよね、男性に

そうかな。時代という定義があるからね。それもひとつの重要な面だよ

明治だからって、失礼しちゃうわよ。女性を雑巾くらいにしか思ってないんだから。男の人って近間ですませようとするじゃない。昔から変わってないわよね、その点は。家にちょうどいい民子がいるんですもの。それも二才年上よ。デートに誘って断られるようなリスクはない。すべて面倒なことはしないですむ、そういう魂胆よ。そうじゃない?必要なくなったらお墓にいかせちゃって

そ、それはひどいんじゃないか?伊藤左千夫はもっと純粋に書いたんだと思うよ。夏目漱石も絶賛したって言うし

 お皿が運ばれてきた。女性はバックの中をごそごそとさわっている。男性はフォークを持ってすぐ食べ始めた。

純粋とか純愛というのが問題よね。むかしは男の作家が多くて女性はこうあるべきと示してしまったから、あとの女性がどんなに迷惑したか。まあ、野菊の墓は、もてないから、こうなったらいいなぁと思って書いたんだと思うわ

いつもひどいこというなぁ。食べないとさめるぞ

だから売れたのよ。それで女の子の写真くっつけてまだ売れてるんじゃない

そっ、そりゃぁ、すこし子供じみてるかもしれないよ、むかし書いたんだから

その本三百五十円もしたのよ

若くてきれいな女優さんじゃないか、嫉妬してるんじゃないか

ウエイトレスがパンのバスケットを持ってきた。女性はやせぎすの首を横にふって手に持っている錠剤を飲んだ。胃を悪くしてるのかもしれない。

だけど、民子はまだ十五才だよ。ありえると思うよ、じっさい

そりゃありえるわよ、でも十五で十三の男の子はそのころじゃちょっと幼すぎるわよ。それに、ひとに言われて赤くなって気がついているのよ、品格あるとも書いてあるんだから、恥ずかしくて二度と書斎になんか入って行かないと私は思うわ。そういうところだけ娼婦になれと言ってるようなもんよ。。そうは問屋がおろしません。ほととぎすだかヒバリだかしらないけれど

私はくすっと笑った。男性は風船から空気がもれてきたようなかんじで背を丸くしている。女性のえりぐりに背骨の凹凸がみえる。

すこししてページをめくって顔をあげると、その男性と目があった。あの女性は、べらべらよくしゃべる。きっと小さいときからお喋りだったんだろう、母親もそうだったのかもしれない。すこしは相手にもゆっくり話させて、意見を聞けばいいのに。男の人がかわいそう。

しのぶ君、せんせぇ、それで視点の問題なんだけどぉ、語り手が大人になった政夫だと思っていたら「二人は、」とか何度も書いてあって不特定な語り手になってしまっていると思うんだけど。こういうの信頼できない語り手っていうのかしら

いや、そうじゃないでしょ。信頼できない語り手じゃ純愛小説はなりたたないよ

大人の政夫が語り手だったと思ったら、子供の政夫に変わっちゃったようなとこもあったし、視点がぐらぐらして一貫性ないと思ったけれど気がつかなかった?私の背骨にはびんびんきたんだけれど

いやあ

そんで、政夫が野菊に気がつくところおかしいと思わなかった?

男が繊細だから気がついたんじゃないか。どうしてそれがおかしいんだ?

民子が先に歩いて行ってるのよ。大好きなお花、ぜったい見逃すはずないもん。さがしながらあるいてるはずなんだから。まあ、語り手の政夫を繊細な人間にするのもしないのも作者しだいよね。あれは女性の心理に無知ということね

むっ、む、、むちぃ

そう繊細に欠けるところ

ほかの場所を見てて見過ごしたってことだってあるじゃないか

だったらそうゆう夢中になってるところを書かなきゃ。そうじゃなかったら読者は納得できないでしょ。それに政夫ってかなりのマザコンよね。母親の肩もって

マザコンは仕方ないよ。そんなもんだよ日本の男ってもんは

 ふむふむふむ。日本の男性はそう思ってマザコンを肯定しているわけね。これはずいぶん素直なこと。マザコンなんて悪口いいたくなるけれど、こう素直にマザコンを直視しているところを聞くと悪口いえなくなる。男性は、ほおづえをつくようなかわいいそぶりをしてから、口をへの字にして私のほうを見やった。かわいそう。日本人の女性に育てられたからマザコンになってしまって、それでまた日本人の女性に嫌味をいわれ続ける。まずいサンドイッチを食べてるようなものかもしれない。こういう男性にわたしは母性本能をかきたてられる。背筋がかゆくなってきた。胸をすこし前に突き出してカーディガンの下から背筋をかく。バスト四十五はかなりきつい。背筋がはってきてときどきかゆくなる。

女性は下を向いて食べている。わたしはゆっくりダージリングを飲みほして、D型のカップをソーサーの上にそっと置いた。男性がわたしのほうを見た。わたしはニコッとして男性に応援のピースサインを送った。

男性はびくっとして腕を組んだ。そして組んだ腕をといてまたぐっと組んだ。目線は上下、左右に泳ぎ、わたしのほうは見ない。なにを考えているのだろう。アメリカ人の男性だったらウインクのひとつくらい送ってくるのに。

うしろのほうでガサガサしている。ふりむくと、入口に長い列ができていて、店員が整理券を渡している。折口先生というその男性はひょっとして有名な学者なのかもしれない。折口信夫という国学者がいたけれど、まだ生きていたのかしらん。とにかく日本に長くいなかったし、文学もなにもかもからきし知らないのでちんぷんかんぷんでいけん。

みんなこちらを見ている。アイスティーにしておけばよかった。手の甲でおでこのしっとりとした汗を、そっと、そっと、ぬぐいとる。右側にある窓ガラスを見るとわたしの顔がほてっているのが見える。ずーっと背のない丸椅子でしゃんとしていたので上半身がこちこちになってきた。両手を椅子で固定して、ウエストをねじるようにまげる。それからバランスのため反対方向にも。ぐぐぐーっ。ゆっくり薄紫のカーディガンを、背をまっすぐにしたまま、すっ、するーっと羽織をおろすようにぬいだ。カーディガンの下は、ホルタートップの薄茶のドレス。背筋はかいた赤いあとがあるかもしれない。

ドヤドヤとうしろで音がする。ふりむくと、店員を先頭に男性五人がなだれこんできた。びっくりして見ていると、私のほうを見てひそひそと話している。朝食はサンマにお味噌汁だった。私の顔にごはんつぶがついているのかもしれない。

わたしは唇をとんがらかして、ほおをべにさし指でさわった。フーーッ。

何見てんの?

と女性は言ってわたしのほうを振り向いた。わたしは、

と言って目を大きくする。

あら-、門楼さんちの真理鈴!

まあ、しゃべりまくり子だったのね

お久しぶり。またずいぶん太ったわね

まくり子も、鶏がらみたいでわからなかったわ

ダイエット中よ、あなたもどう?。ところで、いつ帰ってきたの

一年まえ。ところで、お相手の方ご紹介してくださらない?うっふん